2022/05/30 18:55

ずいぶん昔ですが、カナダ北部のユーコン準州を旅した際、今後めったに行く機会も無いであろうと、お隣のアラスカにも足を伸ばしました。アラスカではフェアバンクスとアンカレッジの他に、ビーバーという村を訪ねました。フェアバンクスから小さなセスナに乗って行くような、気軽に行こうとは思えない場所にある村なのですが、親切な方々の助けを得て、行くことができました。

当時の村の人口は80人ほどだと聞いた記憶があります。

ツアーガイドをしている現地の方の家、というよりは小屋、に1泊だけ泊めてもらいました。

 

実はこの滞在のことはあまり詳細に覚えていません。写真は残っているのですが。

ただ、ひとつ強烈に感動したことがあって、それは生まれて初めてと思われるような静寂を体験したことでした。

 

ビーバー村はユーコン川の川岸にある村で、到着した日の夕方少し時間を持て余し、川まで歩きに行きました。

川沿いに着くと、無風で水音がなく、とても静かでした。川の流れが本当にあったか、記憶が定かではありません。人の声もバイクの音もない、そういう気配すらない場所でした。鳥や動物の声もせず、ただ自分の吐息と、唯一、川の中の小石がひとつ、ころっと動いた音が聞こえただけでした。

ユーコン川と枯れ草と、その上に空がいっぱいに広がる無音の世界。圧倒されました。

静寂の中しばらく突っ立っていると、時間の流れまであいまいになり、このまま永遠にひとりぼっちになってしまいそうで少し怖くなったくらいでした。


星野道夫さんのエッセイ集「長い旅の途上」を読んでいて、そんなことが久しぶりに思い出されました。

その中の「悠久の自然」というエッセイで星野さんは、すべてのものに平等に同じ時間が流れている不思議さについて触れ、次のような趣旨のことを書いています。

 

”例えば満員電車に揺られながら学校に向う途中、東京の雑踏を歩いている時、今、この瞬間、ヒグマが北海道の原野を歩いている……。そこに行く必要はないが、その存在を知り、想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きていくうえでひとつの力になるような気がする”

 

日々の暮らしに追われているとき、遥か遠い自然にもまた、もうひとつの時間が流れている。

そうだよなあ、とつくづく思いました。

今ここに流れる時間とは別に在る、”悠久の自然”に思いを馳せてみる。

それが小さな助けになるようなことが、きっとあるだろうと思います。