2024/10/20 16:35
「長ったらしいファンレターほど閉口するものはない」という一文を、先日高峰秀子のエッセイの中に見つけ、私は込み上げてきた恥ずかしさに思わず目を瞑った。
忘れもしない2023年、スターマエケンに便箋4枚にわたるファンレターを書いて渡したからである。
自分としてはかなり短くまとめたつもりでいたのだが、4枚というところに友人がたしかにびっくり仰天していた。ファンは伝えたい気持ちがいっぱいある。つい長ったらしくなるものだ。
ファンレター、と思うと4枚は閉口ものかもしれないが、レポートと思えば許されるだろう。レポートならむしろ短いくらいだ。
手紙を書こう! と思いついた夜、胸がワクワクして力が湧いてきた。人生に一度あるかないかの一大プロジェクトだ。
夕食後、さっそくきちんとした便箋と封筒を駅前へと買いに走った。
まずはコピー用紙に下書き。一夜ではもちろんまとまらない。添削に次ぐ添削が毎夕食後の日課となった。昨日良いと思った文章が、今日そこまで良いとは思えない。赤ペン入れて、なんだか仕事をしているみたいでもあった。夜、テーブルには紙が散乱し、灯りのついた部屋は充実の時間いっぱいに満たされていた。
苦笑されるだろうか。私は一体何をしているんだ。これは何の作業なんだ。やっぱりやめたほうがいいだろうか?
書いているうち空しさのようなものも少なからず湧いてくるが、そういう疑念はひとまず捨てることにした。そういうときは、今まで自分が個展でお客さんにいただいた感想カードなどを読み返し、大丈夫、気持ちを伝えるっていうのはとても一生懸命なことで恥ずべきことは何もないと、それらに勇気づけられた。
清書はロイヤルブルーの万年筆で。昔母の友人にいただいたカヴェコ。
漢字を書き間違えたり、文章を修正したくなったり、結局50枚綴りの便箋全て使い切ってしまった。私は几帳面かつ粗雑な人間で、清書の作業にはその両面が存分に発揮されたと思う。同じ便箋を買い足し、その最初の4枚をもってようやく仕上げた。ありきたりなファンレターになった。
素直な気持ちを言葉にするというのは難しく時間のかかることだと思った。
そして手紙というのはすごく素敵な文化だと思う。
手紙を渡す際、緊張のあまりスターの目を見られなかった。覚えているのは薄紫のサングラスと、封筒の文字を見たマエケンがすぐ万年筆に言及したこと。すご〜い、と私は子供のような心で感動した。とてもいい思い出だ。
ちなみに高峰秀子はエッセイの中で、昔内田百閒にファンレターを書いた話を披露している。長ったらしいファンレターほど閉口するものはない、という自らの経験を踏まえ、潔く短い電報のような手紙を送ったという。その返事のくだりがとても面白い。電車内で読みながらひとり笑ってしまった。